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プロフィール

ごあいさつ

はじめまして!香川県、高松市で心理カウンセラー・箱庭療法士・カラーセラピスト

として活動しております、深藍(みあ)と申します。

これから、私の生い立ち、カウンセリングに出会った経緯について、お話したいと思います。

超人見知りの幼少期


私は1977年、香川県高松市に生まれました。


2つ違いの兄がいる、2人兄弟です。


同居の祖父母(母方)は教師、父は公務員、母は習い事の先生。


いわゆる「お堅い家庭」で、とても田舎だったこともあり、周りからも注目されるような家でした。


母の話では、小さい頃から感受性が強く、人見知りで慣れない人に抱かれるのを異常に嫌がり、知らない場所に行くと固まってしまう・・・


そんな子どもだったようです。


そんな私を心配した母は、荒療治をするために、3歳から保育所に入所させることを決めたようです。(兄は4歳からの入所でした)


その入所式の日。


ただならぬ雰囲気を察知した私は、緊張のあまり、嘔吐してしまいました。



それを見た母は、


「この子は何て神経の細い子なんだ!」と思ったようです。


そんな感じだったので、保育所では一切言葉を発することもなく、


自分を全く出せない、常に緊張状態で過ごすことになります。


お昼寝の時間、先生がトントンをしに来るのも嫌で、


「頼むから放っておいて欲しい!一人で寝かせて欲しい!」と思っていました。



そんな一方で、友達のする事や先生達のする事を冷静に見ている部分もありました。


「あの先生は自分の気に入っている子と、そうでない子に対する態度が全然違う」


「あの子をみんなで虐めて・・・・許せない!!」


など、言葉は発しませんでしたが、心の中では色々感じていました。


でも一切、その思いを人に伝えることはできなかったので、ひどい葛藤状態に陥り、


保育所に行きたくない


と、よく駄々をこねていたようです。


実際に泣いて騒いで、ずる休みをした記憶があります。

自分の立場を自覚しはじめた小学校時代

小学生になった頃、


私は何か特別な目で見られているかもしれない」という事に気付きはじめます。


それは、どこに行っても「〇〇先生のお孫さん」と紹介されるからです。


この頃には、祖父母はもう教師を退職していましたが、地域の教育委員会に関わったりと、まだまだ「先生」と周りに言われる事が多かったのです。



そうか、私は先生の孫だから・・・


そういう目で見られるから・・・


「良くできる子」でいなければいけない。そう思うようになります。



そして、家族からも実際に、


「あなたは周りの人に常に見られているのよ」と言われるようになります。



勉強ができて、真面目で、礼儀正しくて・・・


そんな自分でいなければいけない、そんな風に思い始めました。


そんな風に振舞っていると、


実際「おりこうだね。」「良くできるね。」


「しっかりしているね。」と周囲の大人から褒められることが増えます。



そうか!自分の思いを出すよりも、周りの大人の期待に応えることが、上手くいく方法なんだ!


無意識にそんな事を思い、大人の顔色を伺うことが、習慣化するようになりました。

多感だった思春期

小学校高学年~中学生ぐらいまでは、いわゆる女子がグループで固まり始める時期。


同じグループにいても、その子がいない所で悪口を言ったり、またリーダー角の女子が、気に入らない子を順番に虐めていったり・・・と


女子にはあるあるの話ですが、


そんな雰囲気も、私にはなじめませんでした。



かといって、一人になる勇気もなく・・・


表面上は合わせていましたが、心の中では沢山傷ついていました。



人と親密になることが怖く、


何とか作り笑いでその場を乗り切っていた・・・そんな思春期時代でした。



また、反抗期を迎え、「良い子」にしていなければいけない事に不満を感じ始めていました。


例えば、「夜は必ず雨戸を閉めなさい!」


と言われます。理由は、夜遅くまで子ども部屋に電気が点いていると、近所の人が、


「さすが〇〇先生のお孫さんやな~!夜遅くまで勉強しよるんやな~!」と言いに来るからです。



また、部活が一緒の男友達と道を歩いているだけで、怒られました。


「男の子と歩くなんてはしたない!近所の人に何言われるか分からないでしょ!」と・・・。



「何で私は他の家では気を遣わなくていい所まで、気を遣わないといけないのだろう?」


「他の家では普通に許されていることが、許されないのだろう?」



「こんな家、望んで生まれてきたんじゃない!」


「自由にのびのびと過ごしたい!」


そんな事を心の中で思うようになりました。



でもそれは、両親や祖父母には、伝えることはできませんでした・・・。

優等生が嫌になった高校時代

高校生になり、私はいわゆる地域で進学校と言われている高校に入学しました。


私はずっと、中学の近くではなく、少し離れた高校に行きたいと思っていました。


それは、「〇〇先生のお孫さん」と言われる事から離れたかったからです。


ですので、「できるだけ私の事を知っている人がいない所に行きたい」そう思っていました。


と言いつつも、進学校を選んだのは、まだまだ家族の期待に応えたいという思いがあったのかもしれません。



志望校に合格し、喜んでいたのも最初だけ。


中学では上位だった成績も、進学校だったせいもあり、かなり頑張らないと上位には行けない状況になりました。


その辺りから、勉強を頑張るという事に興味が持てなくなりました。



特に目標もやりたい事もなく、何となく毎日学校に行く日々。


「そもそも義務教育でもないのに、なぜ高校に行かなければいけないのか?」そんな疑問も感じていました。



また、中学時代と比べると自由になったとはいえ、他の友人たちと比べると、門限や制約など、かなり厳しい事には変わりありませんでした。


進学校ではない友人と付き合うと、「足を引っ張られるからやめなさい。」というような事を言われたり、
門限もかなり厳しく言われていました。



両親は私が友人に影響されて勉強をしなくなった、そう考えていたようです。


でも、私の本心は違いました。


良い大学に行って、大きな所に就職することが幸せだ、という価値観に嫌気が指していたのです。


当時自分では意識していませんでしたが、そんな両親に反抗するために、私はわざと反対されるような友人と付き合っていたのかもしれません。



私は「何とかこの家から出たい!」「早く自由になりたい!」そう思うようになっていました。


私は当時、心理学に興味を持っていたので、新設の心理学科がある大学に進学したいと両親に伝えました。


しかし、父に「新設の大学は就職がないし、心理学は尚更就職に繋がらない」と反対されました。




とにかく家を出たかった私は、「どの大学だったら県外に出ても許可がもらえるだろう。」私はそう考えるようになりました。


「きっとそれなりに名前が知られていて、それなりの偏差値だったら許してもらえるだろう」そう思った私は、
児童心理学が学べて、幼稚園教諭の資格の取れる京都にある大学を第1志望にしました。


予想通り、その大学に進学することは反対されませんでした。そこで私は一人暮らしをすることを夢見ながら、受験勉強に励むのでした。


素晴らしい出会いのあった大学時代

晴れて第1志望の大学に行くことができ、私は児童教育学を専攻しました。


思いのほか心理学系の授業も多く、頑張って来て良かった!そんな風に思っていました。



実家を離れた私は


「やっと自由の身だ!」


「好きな事をするぞ~!」


そんな気持ちで迎えた大学生活。


門限なし、監視する家族、近所の目もなし


自由な生活は、とても楽しいものでした。


自分で考えて行動できる事がこんなに快適だなんて!そんな気持ちでいっぱいでした。



私は母子生活支援施設にボランティアに行くサークルに入りました。


施設の子ども達と遊んだり、宿題を見てあげたり、夏にはキャンプに連れて行ってあげたりするサークルです。


そのサークルに携わる人達に、私は魅了されました。



みんな真剣に、子ども達のことを考え、


夜遅くまで話し合いながら、サークルを運営していくのです。


そしてそのサークルには、個性豊かなメンバーがいましたが、みんながみんなを認め合っている、そんな雰囲気がありました。


私はサークルにすっかりハマってしまい、


それが青春と言っても過言ではないぐらい、素晴らしい体験と、素晴らしい仲間に出会いました。



自分が自分らしくいられて、そしてそれをみんなが認めてくれる・・・


仲間といることが、楽しくて仕方ありませんでした。


実際、サークルの友人とは今でも繋がりがあり、一生の友人達だろうなあと感じています。



そんな楽しい生活を送っていると、卒業しても実家には帰りたくなくなってきました。


実家に帰ると、また監視の日々だ・・・


そう思うと、帰る気にはなれませんでした。



私は「どうやったら、関西に残れるだろうか?


という事を考え始めます。


「そうだ!公務員になれば、両親も納得するはずだ!」



そう思い、公立の保育士採用試験を受けました。


関西に残りたい一心で試験勉強に励み、無事合格!


一応カモフラージュに地元の採用試験も受けましたが、行くつもりはありませんでした。



この時、両親は私を実家に帰らせようと京都まで説得に来ましたが、


正規採用の内定をもらったのは関西のみだったので、晴れて私は卒業後も関西に残ることになったのです。

無力感にさいなまれた保育士時代

「さあ、頑張るぞ!」希望に胸をふくらませて、保育士として頑張ることを決意しました。


きっと、これからも楽しい生活が続くはず・・・


そう思っていました。


しかし、就職してみると、私は以前の他人の顔色ばかり伺う自分に、完全に戻ってしまいました。



新社会人。右も左も分からない状態。


だから、仕事はできません。毎日迷惑をかけてばかり・・・。


私はずっと、「他人に評価されること」を自分の存在価値として生きてきました。



周りの大人が褒めてくれるから・・・


えらいねって言ってくれるから・・・


社会人になって、そんな自分に完全に戻っていました。



「こんな仕事のできない自分を、先輩はどう思っているのだろう。」


「園長先生はどうやったら私の事を認めてくれるのだろう。」


毎日そんな事ばかり考えていました。



「先生はどう思っているの?先生の思うようにしたらいいんやで!」


そう言われても、できません。今まで、目上の人の前では自分の思いよりも周りの言うとおりにしてきたからです。



色々思うことはあっても、自信がないので、発言することはできないし、


行動することもできません。何が正解か分からないからです。


ただただ、私は認められたかったのです。



そのうち、私の思考はゆがみ始めます。


「体を壊すまで頑張ったら、園長先生は認めてくれるだろうか?」


そんな風に思い始めます。



そして、思った事は現実になります。


私は身体を壊して退職し、実家に帰ることになりました

絶望から心理学の道へ

「自立したい!」そう思って関西に就職したのに、また実家に帰って来てしまった自分。


そんな自分が、嫌いで嫌いで仕方ありませんでした。



「結局私は、一人じゃ何もできないんだ・・・」


「自分なんて、生きてて意味があるのかな・・・」


「なんの役にも立っていない自分は、いても仕方がない」


毎日、寝たきりの中、そんな事を考えていました。



私は保育士時代の無理がたたり、身体が思うように動かなくなっていたので、


保育士として勤務することは難しいな、そんな風に感じていました。


家族からも、「もう良くなったんか?」そんな事を頻繁に言われ、プレッシャーも感じていました。



とりあえず、起き上がれるようになったら、仕事を探さなくてはいけません。


実家に戻っていたので、ずっと家に引きこもっていると、それこそどんな噂をされるのか分かりません。



ただ、そんな中でも、自分が辛い気持ちになったからこそ、心理学の勉強がしたい」そう思うようになっていました。


大学では心理学を専攻することはできなかったけれど、やはり心理学を本格的に学びたい!


そう思うようになっていきました。



私は事務職のバイトをしながら、心理学の勉強を始めました。


当時、香川県では学べる所がなかったし、ZOOMで受講もできませんでした。


そこで私は給料のほとんどをつぎ込んで、高速バスに乗って、関西や時には関東まで勉強に行きました。



そして、自分自身を見つめていく中で、


アダルトチルドレンであること


些細な事が気になる繊細さん(HSP)であることが分かりました。



心理学を学んで気付いた事は、今の私は幼い頃からの環境や、親の価値観から強い影響を受けているという事でした。


それを知った時、私は生まれた家への怒り・父への怒りが噴出しました。



昔から、自分の気持ちより、世間体、他人の顔色を優先するように言われてきて、結果、今自分が苦しんでいる事。


父の価値観と違うことは一切受け入れてもらえなかったこと。


勉強して良い大学に行くことこそが、価値のあることだと言われ続けてきたこと。



そうだと言うから信じてきたのに!


じゃあ何で今の私はこんなに苦しんでいるの?


今まで自分のやってきた努力は、何だったのだろう?


そう思うと、やりきれない気持ちでいっぱいになりました。



特に父への怒りは、なかなか手放すことができませんでした。それは、今の夫との結婚を反対された事も、大きく関係していました。

夫との出会い、そして自立へ

ちょうど心理学の勉強を始めた頃、友人の紹介で夫と知り合いました。


夫は、私とは正反対の環境で育った人。放任、自由に育てられた人です。


とにかく優しく、束縛しない、否定しない、そんな人でした。


お互い、学生時代にボランティア活動をしていた事で話が盛り上がり、とても一緒にいて居心地の良い人でした。



私はずっと、「足りないもの」を探して生きていたような所があります。もっと頑張れ!もっと頑張れる!そう言われて育ってきました。


だから、大学まで出してもらい、身体を壊して帰って来て、今バイトをしている。そんな自分は決して好きではなかったし、幸せだとも思えませんでした。



仕事をバリバリして輝いて見える友人、結婚して幸せそうな友人、子育てを頑張っている友人・・・


そんな友人たちを見ては、「私は全然ダメだな。なにやってるんだろうな・・・。」そんな気持ちになっていました。



そんな私を無条件に優しく包んでくれたのが、今の夫です。


体の調子が悪くても、バイトでも、バリバリ働けなくても。


きっと彼には、人を好きになる事とそんな事は全く関係なかったのだと思います。


こんな自分でも好きになってくれる人がいる、そう思えた事は、私にとってとても大きな出来事でした。



付き合って1年ぐらい経った頃、お互いに結婚を意識し始めました。


最初、母に「紹介したい人がいる。」と言った時、母はとても喜んでくれました。


「〇〇からその言葉を聞くのを待っとった。」と。



でも次の日、状況は急転します。


その話をした時、父に後から相手の両親の職業・出身・彼の職業などなど・・・


色々と聞かれました。



それを聞いた父は、私のいない所で「話にならん!」と吐き捨てていたようです。


父の考えを聞いた母は、気持ちが変わってしまったのです。


ここから、両親に結婚を反対される事になります。



私は、高校時代の事を思い出していました。


「まただ・・・ろくに話も聞かず、肩書や学歴だけで判断して。」


私はもう、この頃には、家柄や、学歴や、偏差値でその人の価値や人生が決まる、とは到底思えなくなっていました。


その価値観に自分が苦しんできた事を、心理学を学んで知っていたからです。



とはいえ、両親に反対されるという事は、私にとってとても辛いものでした。


両親の事を憎む気持ちもあるけれど、それと同じくらい、私は両親に認められたかったからです。



自分の選んだ人を認めて欲しい


自分の事を認めて欲しい


自分の違う価値観の生き方も、認めて欲しいそんな気持ちでいっぱいでした。



そんな私の生き方を応援してくれたのが、心理学で出会った仲間でした。


私はカウンセリングのワークショップに参加しては、自分の思いを吐露し、自分の気持ちと向き合っていました。


そんな私を無条件で認め、応援してくれる仲間。私の話に涙を流してくれる仲間。



また心理学で出会った仲間も、それぞれ心に傷を抱えていました。


そんな話を聴かせてもらうことも、私には大きな勇気と励ましになりました。


また、カウンセリングを受けていたカウンセラーの先生が見守ってくれていた、その事もとても大きな力になりました。



私の事を信じ続け、見守り続け、カウンセリングでどんな感情が出てこようとも否定せず、時には背中を押して下さり・・・。



そんな過程も、夫にはずっと話していましたし、夫は私が覚悟を決めるまで、何も言わず、応援してくれていました。


私は沢山の方に勇気をもらい、「3月末で仕事を辞めて、彼の所へ行き、結婚します。」と両親に言うことができたのです。


結婚を反対されてから、3年の月日が経っていました。

父への怒りを手放す過程について

私が「結婚します」と告げた時、父はありったけの言葉で、私を引き留めようとしてきました。


「出ていくならこの家の敷居は2度とまたがさん」


「そんなんでうまくいく訳がない」


「今までかかった教育費全部返せ」


色々な事を言われました。


でも私は、今回は「わかりました。やめます。」とは言いませんでした。



両親に認めてもらえないことは辛いけど、私には応援してくれる仲間がいる。


どんな事があっても一緒に生きて行こうと決めた夫がいる。


そして幸いにも、夫の両親も応援してくれました。



「私はもう、どんなに言われても私が信じた道を生きるんだ!」


そう覚悟を決めた時、ものすごいスピードで現実が変わっていきました。



そう、私は決めればよかった。ただそれだけだったのです。


でもそれば、私にとって耐えがたい恐怖と不安だったのでした。



私が結婚を決めたことで、母は応援してくれるようになりました。


私が変化したからか、父の言う事に100パーセント従ってきた母も、


この頃には「私は違うと思う。」と父にハッキリ意見を言うようになっていました。



ただ、結婚できたからといって、今までの父を全てゆるします、とはなりませんでした。


私は相当傷ついていましたし、今でも思い出すとやはり悲しい気持ちになります。


私は、もう父をゆるせなくてもいい、もう私は父に影響を受けずに生きていけるようになったのだから。


そう思うようになりました。



父に対する気持ちが少しづつ変化していったのは、私が親になってからです。


私は自分が親になり、親は親で色んな思いを抱えながら子育てしている事を知りました。



父は父で、義両親が教師と言う家柄にマスオさん状態で、相当しんどかったのだろうな。という思い。


また、あれだけ反対していたにもかかわらず、孫が生まれるととても喜び、とても可愛がってくれている姿。



そしてある時、母から父の生い立ちについて話を聴く機会がありました。


そうか、父も寂しかったんだ・・・。愛して欲しかったんだ・・・・・。


父には父の生きて来た背景があって。傷も沢山抱えていて。



そんな中、父は父としてできる事を考えて私に接していたのだな。


それが良いか悪いかは別として・・・。



そして私も今、親になってみて、


子どもを全く傷つけずに接することができているか、と考えると、NO!です。


いつか私のように恨み言を言われることがあるかもしれないな、とも思っています。



ただ、私のできる精一杯を子ども達にしてあげたい、


そのために私は学び続けたいし、人として成長し続けたいと思っています。



私の子ども達に対する思いと、クライエントさんに対する思いは一緒です。


完璧な自分ではないけれど。それでも自分が学んできたこと、経験してきたこと、


それを精一杯の愛情を持って手渡したい、そんな思いでいつもクライエントさんと向き合っています。



私は素晴らしい方々との出会いと愛情で自分の人生を変えることができました。


今度はあなたが人生を変える時の、伴走者でありたいと思っています。


あなたが変わる瞬間に立ち会えること、それが私の幸せです!

HSPの私とHSCの子どもについて

結婚2年目で、娘を授かり、私は身寄りのいない土地での子育てが始まりました。


「お母さん」になることが夢だった私にとって、娘を授かることはとても嬉しい事でした。


ただ、娘の幼少期は、「楽しむ」というより、「悩む」事の方が多い子育てでした。



まず、身内が近くにおらず、夫の帰りも遅い毎日。


私はとても孤独を感じていました。今思えば夫にもっと頼れば良かったのかもしれません。


でも、夫に養ってもらっているという気持ちがあり、なかなか言えず、一人で抱え込んでいました。


ワンオペ育児という事だけでも辛かったですが、娘は私から見ると「育てにくい子」だったのです。



私は保育士をしていたので、比較的色々な子ども達と接していました。


その事を考えると娘はとても神経質で、こだわりが強くうまくいかないとかんしゃくを起こしたり、慣れない環境では泣いてばかりだったり、


おでかけをするのも一苦労な感じで、「もしかしたら娘には何かあるのかもしれない」ととても悩んでいました。



後になって分かった事ですが、娘もHSC(ひといちばい敏感な子)だったのです。



私もHSPな訳ですし、「何で気付かなかったんだ?」と思われるかもしれません。


でも同じHSP(HSC)といっても、私と娘は敏感な部分が全然違うし、表現方法も全く違うので、「とても育てにくい」という事は感じていましたが、


そこに結びつかなかったのです。


繊細さんといっても色んなタイプがあるんだな、という事に、娘に気付かせてもらいました。



ただ、やはり気を遣いすぎて疲れやすかったり、匂いに敏感で強いにおいは頭痛がしたり・・・と共通点もあります。


そして、小学校高学年の時には友人関係にとても悩んでいる様子を見て、私も多感だった思春期を思い出してしまいました。


娘には、そんな自分を否定することなく、上手く付き合って欲しいなと思っています。



苦手は事は助けてもらえばいいし、でも素晴らしい感受性は自分の得意な分野で生かせるような生き方をして欲しい・・・そう思っています。



私は、カウンセラーとして、親子の支援もしていきたいと思っています。


子育てに悩む方がホッとなごめる場であること。


子どもの発達に悩むお母さんに寄り添い、箱庭療法やカラーセラピーを用いて、お子さんの発達を促しながら、お母さんを癒せるように。


そしてお父さんとの関係に悩むお母さんにも。



全ての方が家族との時間を幸せなものにできるように・・・・


それが私の願いです。

得意分野

人間関係全般、アダルトチルドレン、HSP、発達障碍、子育て、親子関係、夫婦関係、恋愛、結婚、生き甲斐など

心理療法

箱庭療法、来談者中心療法、ゲシュタルト療法、交流分析、アサーション、インナーチャイルド療法、カラーセラピーなど